ユアは立ち上がると、その瞬間に感じた気配に軽く目を瞠る。
到着した二人のファイネルは呼吸を落ち着けながら、レイカの腕の中を見て言葉を失った。
理解するのに数秒かかり、その間に遅れてきた守護神たちも同じ反応で、絶句していた。
人間たちにとっては少し刺激が強すぎるかもしれない。
セノトは険しい表情でフィアナの様子を伺うと、意を決したようにユアを振り返る。
「蓮呪を呼ぶ」
本音は蓮呪にこれ以上無理をさせたくないのだが、目の前で仲間が生死の境を彷徨っているとなると、そうも言ってられない。
フィアナを助けるか、蓮呪を守るか。どちらを選ぶなんてことは考える余地もない。
ユアは余裕の失った表情でこくりとうなずくと、それを承ったセノトは洋輔を見る。
「悪いが、神言を唱えてくれないか」
二神呪程度なら力を借りなくても大丈夫なのだが、さすがに白界にいる仲間に連絡を取るのは少々力不足だ。
その頼みに洋輔はわかったと笑いかけると、気持ちを落ち着ける。
先ほど島崎がやってみせたように、頭に浮かんだ言葉を言えばいいだけだ。
「”光である、何者をも照らし出す力よ。これを、我を支える月露に授ける”」
刹那、洋輔の身体が淡い光に包まれ、それはセノトへと移っていくと音もなく彼の中に消えていった。
たしかに光の力を感じたセノトは続いて神呪を唱える。
「”我が月より現れ、それは輝く粒子のように光を標に新たな道へと誘う 月琴珠(げっきんしゅ)”」
前に伸ばされた右手に光の粒が集まりだし、それは徐々に蝶の形へと姿を変えていく。
神気で構成された蝶はおとなしく主の手のひらでじっと止まっていた。
セノトはそれを口許に持っていくと、離れていては聞き取りにくい微かな声で用件を吹き込む。
「……悪いが、急いでくれ」
今は一刻を争う。できるだけ早く来てほしい。
主の命令を承った蝶はセノトの手から離れて舞い上がると、弾けるようにして姿を消した。
あの蝶は素早く白界の蓮呪のもとへ行き、伝えてくれるだろう。
そして視線をフィアナに戻すと、同じように地面に両膝をついたクロカがとりあえず止血しようと傷口を圧迫しているが、時間が経ちすぎているのであまり意味がない。
早く来てくれ、蓮呪。でないとフィアナの命が失われてしまう。
傍で見ていたユアも苛立っていた。
それからしばらくして、自分の一番知る神気が近づいてきた気配を感じ取り、セノトは空を振り仰ぐ。
やや置いて、彼と同じくらいの少年が姿を現した。
薄いクリーム色の髪は肩につかない程度で、神気の余波で軽く翻った顔の左半分を覆う前髪を慌てて押さえる。頭にはバンダナが巻かれ、同じくひらりと舞う。
片目しか見えない瞳は静かな水面を写したような淡い青をしている。年はセノトと同じなのだが、彼の親友が大人びて見えるせいか幾分幼い印象を受ける。
「悪いな、蓮呪」
セノトは幾分険しい表情をしながら一言謝ると急いで来たのか、肩で息をしている蓮呪は途切れがちに大丈夫だと答える。
その様子にユアはほうと息を吐き出した。これでフィアナは助かる。
「早くしてくれ、蓮呪」
「そうだったな。……これはまた手酷くやられたな。生きてるのが不思議なくらいだ」
かろうじて命が繋がっている状態だ。もはや奇跡に近いだろう。
急かすユアに頷いてみせ、蓮呪はクロカの隣に片膝をついて容態を見てから、静かに詠唱する。
「”癒しの力、この身に受ける傷を聖なる光で治療しろ 瑠癒(りゅうゆ)”……っ」
瞬間、それと同時に全身を鋭い痛みが走ったが、何度か息を吐き出してやり過ごす。
神呪が完成すると、傷口にかざした左手に仄白い光が灯り、優しくフィアナの肢体を包み込む。
あれだけ痛々しかった傷が瞬時に消えていき、まだ浅いが呼吸が規則正しいものになる。
「これでひとまずは大丈夫だろ。ちゃんと息もしてるし」
彼女の無事を確かめてから仲間を見渡し、蓮呪は肩の荷を降ろす。
ユアは安堵の息を吐き出すと、すぐに厳しい表情に変えて呆然と事の成り行きを見ていた浩輔へと歩み寄る。
「え、ちょっとユア?」
さすがのクロカも彼の行動が読めず、首をかしげる。
しかしそんな彼女の言葉も今のユアの耳には届いていないらしく、彼はそのまま自責に駆られている少年の目の前で立ち止まる。
ユアの鋭い瞳に浩輔はびくりと身をすくませ、半歩後退るが、それをユアは逃さない。
真剣な瞳がまっすぐに人間の少年の目を捉える。
「なんで、あいつに力を貸さなかったんだ?」
自分でも驚くほど静かな声音だった。
しかしそれが矛盾していることもわかっている。
人間が力を貸してくれることを是とするのは、ほんの一握りしかいないことを、彼は十分に知っている。
でも現にそのせいで、フィアナが昏睡状態に陥っている。
今回だけでもいい。力を貸していたのなら、彼女がこれほどまでに酷い傷を負わなくてもよかったはずだ。
それに答える言葉はなく、浩輔はただ俯いたまま口を引き結んでいた。
「危ないと感じなかったのか?フィアが傷つくのを黙って見ていて、何も思わなかったのか。……俺たちは不死身じゃねぇんだっ」
人間ではない存在なのは確かだが、だからといって体の造りが強いわけではない。
人間と同様で傷つけば痛いし、命を落とすこともある。
ユアの言い分を他のファイネルたちは黙って聞いているしかなかった。しかしそれはただ単に自分の考えを押し付けているだけだ。浩輔に自分に対する怒りをぶつけているだけなのだ。
ちゃんとユアもわかっているはずだ。彼だけが悪いのではないことくらい。
でもそれでは納得がいかない。フィアナは命を張って少年を助けたのに、彼にはその意思はまったくない。
胸倉を掴んで殴りかかりそうな雰囲気にさしものセノトも止めに入った。
このままでは何の解決にもならない。
「ユア、少しは落ち着け」
ユアより十センチばかり高いセノトは彼の背後から両手首を掴み、静かな声音とともに浩輔から遠ざける。
「な、放せよっセノト!こいつさえ、フィアに神気を貸してれば、あいつがあんな傷を負うこともなかったんだっ」
力任せにセノトから逃れたユアは怒りの矛先を彼に変え、反論する。
横たわるフィアナの服の裾は切り裂かれ、血が白い肌を赤く染めている。
今は蓮呪の神呪のおかげで傷は癒えているが、胸元には大きな裂け目があった。
彼の気持ちはわかるが、セノトも彼女と約束をしたのだ。
私欲のために力を借りるのだから、もしも拒まれても、最悪な事態になったとしても浩輔を責めないでほしいと。
それが四十年前の二の舞になったとしても。
その言葉を承知した彼はフィアナとの約束を破りたくない。
未だ納得のいかないユアの鋭い殺気にセノトは意を決する。
「いい加減にしろっ、水皐!!」
「……っ!」
一瞬にしてその場の空気がしんと静まり返った。
彼の怒声と、慣れないもう一つの名前にユアの勢いは幾分弱まる。
「セ、セノトがあんな声出すなんて……初めて見たわ」
「……うん、たぶん怒らせると一番怖いのはあいつだと思う」
クロカの呟いた言葉を聞き取った蓮呪は苦笑いを浮かべながら同意を示す。
幼い頃からいつも一緒にいた彼は何度かセノトを本気で怒らせたことがあった。
常に冷静を保っているセノトが声を荒げると、たいていの人はユアのような反応を示すだろう。蓮呪でも彼が怒っているのを見たのは片手で数えられるほどだが、あれは慣れるようなものではない。
「フィアナは自分に何があっても、何も言うなと言ったんだ。それを無視するのか」
「……。……それは」
あの時も彼女は闇の守護神を責めなかった。むしろ守れなかったことに自分を責めていたのだ。
だから今回のこともきっと自分の非力さに自分を責めるだろう。
ユアはうまく言い返す言葉が見つからずに、くっと唇を噛んだ。
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