≫ No.3

12 : 第十二話




放課後、帰宅するためにあみの教室に向かった杏里だが、友人の姿はなかった。そういえば彼女はクラスの学級委員をしていて、今日はそれの打ち合わせだとか言っていた気がする。
「……あ」
杏里はふと何かに気づいた。
あみの代わりに未だ教室に残っていたユアを見つけたのだ。誰かを待っているのか、別段何をするというわけでもなくただ面倒そうに席に座っていた。
どくんどくんと嫌に心臓の音が大きく聞こえてくる。身体が動いてくれない。
ほうと息を吐き出し、気持ちを落ち着ける。それを何度も繰り返し、心臓の鼓動を抑え込む。
話しかけようかどうか逡巡していると、背後から軽く背中を押された。
はっとなって振り返ると、いつの間にかクロカがいて笑っている。
頑張れ、と小声で言われ、それに励まされて杏里はそろそろと彼の近くに向かった。
「…………?どうしたんだ?」
島崎も委員会があるとかで出て行き、その帰りを待っていたユアは近づいてきた人影に気づいてそちらに視線を向けた。
その顔には見覚えがあるが、彼は彼女の名前は知らなかった。
「あ、あの……お、お昼のお礼……ちゃんとしてなかったな、て思って。本当助けてくれてありがとう。葉月くんが受け止めてくれなかったら大怪我してたところだよ」
「ああ、気にするな。怪我なくてよかったし」
ユアはくすりと笑うと、それに釣られて杏里も柔らかい笑みを浮かべる。
そうしてふと彼は考える仕草をした。
「前はプリントばら撒いてたっけ」
「あ、そうだね。あの時も葉月くんが助けてくれたんだよね。ありがとう」
あの時も彼が通りかかって助けてくれたのだった。それから彼のことが気になっていたのだ。
杏里は申し訳なさそうに礼を言うと、ユアはいや、と首を横に振った。
「ちょうど通りかかったしな。あ、そういや俺お前の名前知らねぇな」
ふいに気づいたユアは杏里の綺麗な黒曜石の瞳を見上げた。
転校してきてこの約一ヶ月でクラスのメンバーはばっちりと覚えたのだが、他のクラスまでは未だはっきりとは覚えていない。
もともと人の顔を覚えるのが得意ではないユアなので、一ヶ月でクラスメートを覚えたのはすごいことなのだ。
そしてこのクラスに彼女がいないので、別のクラスであることはさすがのユアでもわかる。
「あ、ごめん。自己紹介してなかったね。私は藍浦杏里。三組なの、よろしくね」
「そうか。俺は葉月ユアだ」
彼女は自分の名前を知っているようだが、自分も名乗ると最後によろしく、と付け加える。
すると杏里は嬉しそうに笑って頷いてくれた。
そのとき、ユアを呼ぶ声が聞こえた。
「ユア、帰るぞ」
声のするほうを見ると、戻ってきた島崎がすでに鞄を肩にかけ、藤と共に教室のドア近くにいた。その隣にはクロカもいて、彼女は杏里を見ている。
微かに動いた唇が頑張ったね、と語っていた。
ユアは呼んでくれた島崎に短い返事を返し、鞄を手に持って杏里を振り返った。
「じゃあな、藍浦。帰り気をつけろよ」
「も、もう大丈夫だもん。また明日ね」
怒った仕草をした杏里の表情が可笑しくて、ユアはにこりと笑うとそのまま身を翻した。
そして彼の姿が見えなくなると杏里は肺の中が空になるまで息を吐き出した。あれほど全力疾走していた心臓が気にならなかった。
ちゃんと話せただろうか。彼はどんな思いで自分と接してくれたのだろうか。
不安はあとから押し寄せてくるが、それは次にかけられた声にいっきに吹き飛んでしまった。
「どうしたの?杏里。顔赤いわよ」
委員会から戻ってきたあみは一人で肩を落としているように見える親友の顔を覗き込む。
しかし落ち込んでいるように見えたのは間違いだったようで、逆に彼女の頬は林檎のように真っ赤であった。
「な、なんでもないよっ。早く帰ろ」
訝る友人にたいしたことないと言い張りながら、半ば強引にあみの背を押す。
「えーなによもう」
内緒事をしている彼女に頬を膨らませてみせるあみだが、彼女が何を隠しているのかちゃんと知っている。
あみは杏里に気づかれないようにくすりと笑うと、二人は教室を出た。



☆☆☆
「ユア、藍浦のこと知ってたんだ?」
帰り道、クロカは何気なしに問いかけた。
杏里の邪魔になってはいけないと思い、少し離れた場所で見守っていたのだが、どうも二人の会話は顔見知りのようだった。
彼女の問いかけにユアは歩調を合わせると、曖昧な返事をしてきた。
「いや、知っているっていうか、まぁたまたま助けてやっただけだ。転校してすぐくらいに」
「ふうん。そうだったの」
クロカは素直に頷くと考える素振りをした。
確かそんなことがあったような気がする。彼のように転入してきてそう日が経っていない頃に。
記憶を手繰っていたクロカはやがてほうと息を吐き出すと、何かに気に障ったユアが横目で見てくる。
「なにか言いたげだな」
彼女の様子から何かを感じ取ったユアは若干声を低くする。
「別にないわよ。あったとしてもあんたには関係ないことよ」
「…………っ。あっそ」
クロカの言い草にはさすがのユアも声を荒げそうになるが、後ろを一瞥してそれは理性で抑える。
ここでまたケンカをして、額同士をぶつけられたら困る。あれはすごく痛いのだ。
ユアはつんと顔を逸らせてクロカから離れた。
それを何とも言えない表情で見ていたクロカはもう一度嘆息した。
杏里の恋は応援してやりたいが、相手はユアなのだ。フィアナのことを抜きにしたとしてもユアはファイネルで、杏里は人間なのだ。
守護神でない彼女は何事もなければ本来の人間が持っている長さの寿命で一生を終えることだろう。しかしそれでもファイネルの寿命の長さには到底及ばない。
今でも自分たちの年齢は杏里たちの年齢を遥かに超えている。だからもしも万に一つ、ユアが彼女の気持ちを受け取った場合は。
そこまで考えたクロカは頭を振って、余計な思考を打ち消した。
その先を考えたくない。杏里にとっても、ユアにとっても。でもそれ以上に自分にとっても。考えたくもない。
自分の思考に沈んでいたクロカはふいに聞こえた声にはっと現実に戻ってきた。いつもの分かれ道に着いたのだ。
ここでユアと島崎とは別れるのだ。
「じゃあなー、島崎、ユア。また明日」
「ああ」
にっこりと笑みを浮かべて手を振る藤に頷き、二人は角を曲がった。
その後ろ姿を見ていたクロカはふいに意味ありげな哀しい瞳をする。
ユアは人間と関わることを極度に嫌がる。いや、嫌がるというよりは怖がっているといったほうがいいかもしれない。
それはきっとファイネルと人間の差が彼にそうさせているのだろう。
ファイネルは人間が生まれて死ぬまでの間を何度も見ることとなる。別れるのは辛いし、哀しくなる。ならいっそ苦しい思いをするくらいなら。関わらなければいい。
だからきっとユアは学校に行くことを悩んだはずだ。フィアナを取るか自分を守るか。
「クロカちゃん?」
歩き出そうとした藤は未だ立ち止まったままのクロカを省みる。
「…………教室でも藤くんや島崎くんと一緒にいるところしか見ないわ」
ファイネルにとってはそれが良い判断なのかもしれない。でもやはり違うとも思う。
ふいに小さく呟かれた言葉は藤には届かず、聞き返すがそれ以上彼女は何も言わなかった。



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