第七話「望む言の葉」
目の前が赤く染まっている。まるで絵の具をばら撒いたかのように、それは地面を覆っていた。
その中に立ちすくむ人影がある。
それはゆっくりとこちらを向いて、悲しい表情をした。
「……クロカ、すまない」
いったい何が起こったのか、その場にいなかった自分には理解できなかった。
でも一つだけわかることがある。
私はそんな言葉が欲しかったわけじゃない。
私は貴方に、傍にいて欲しかった。でも貴方は私を置いて消えてしまった。
どうして、貴方は私を置いて行ったの?
どうして、本当のことを話してくれなかったの?
最後に見た兄の顔が脳裏に焼きついて離れない。
血にまみれた葵の姿。
その手に握られた、鈍色(にびいろ)にきらめく剣。
いつまでも鮮明に残る光景。
どうして貴方が、母さんを殺したの………?
うっすらと目を開けると、そこは綺麗にされた部屋だった。
クロカは上体を起こして窓の外を眺める。
夜に女の子一人で外にいるのはなにかと危ないという藤の配慮で、彼女は現在彼の家に居候している。
ぼーっと外の風景を見ていたクロカはほうと息を吐き出す。
なぜか気分が重い。少し痛む頭を抱えてベッドを出た。
もともとこの部屋は藤の姉が使っていたのだが、結婚して引っ越してしまったのでそこを使わせてもらっているのだった。
二年ほど使われていなかったのに、埃一つないのは彼の母親が綺麗に掃除をしているからなのだろう。
しかし。
ふと彼女は数日前のことを思い出す。
あれだけの理由でよく了承してくれたものだ。
それなりの理由は考えたのだが、年頃の女の子を預かるというのはいろいろと問題がある上に、簡単には了承できるものではない。
それにも関わらず彼の両親は快く了承してくれたのは、ある意味すごいとしか言えない。
あまり詮索もされなかったし、幸いであったことには変わりはない。
クロカはきちんと畳まれた服を身につけると、部屋を出た。
さて、今日はどうしようか。
本日の計画を立てながら廊下に出た彼女は、ふいに聞こえた足音に足を止める。
「あら、おはよう。藤くん」
振り向くと彼もちょうど起きたのか、クロカがにっこりと笑うと藤は少し眠そうにおはようと返してきた。
「眠たそうね」
いつものことだが、藤は基本的に寝るのが遅いのでそれで朝起きられないことが多々ある。
だらしのない顔をしている彼に苦笑を洩らすと、彼は罰の悪そうな顔をする。
「だって、セーブポイントなくてさ。終われないし、しかも迷うし」
おそらくゲームの話をしているのだろう。
大変だったんだから、と状況を説明してくれるのだが、彼女には何のことだかわからない。
それでも聞いてやり、たまに相槌を打つ。
「それで結局寝たのはいつだったの?」
「二時」
廊下を少し歩いて、階段を歩きながら後ろにいるクロカに答える。
それにはさすがの彼女も呆れてしまった。
まさかゲームごときに寝る間を惜しむとは。
しかしそれを言えば、藤はきっと落ち込むので言わないが、ため息はつく。
それから二人は台所に入ると、テーブルの上に二人分の朝食と小さな紙が置いてあるのを見つけた。
「なんだ?」
訝しげに首を傾げた藤はそれを取り上げ、紙面に視線を滑らせる。
”ちょっと出かけてくるから、起きたら適当に食べといてね”
短い文がそこには書かれてあった。
「こんな朝からどこ行ったんだよ。しかも適当にって、きっちり用意してるくせに」
突っ込みどころがたくさんあるその文に彼は目を半眼にすると、紙をゴミ箱に捨ててテーブルの上を見る。
クロワッサンが二つ乗っている皿とサラダが入ったボウル。それにはきちんとラップがされている。その横にはコーンポタージュの粉末が入ったマグカップが二人分置かれ、理想的な朝食のメニューであった。
用意のいいことだ。
妙なところできちんとしているのだから、あの母親は。
藤はひとまずクロカに座るように促すと、彼女の分と自分の分のクロワッサンをトースターに入れる。それからタイマーを三分に合わせて、次にマグカップに湯を注ぐ。
二つのカップを持ち、彼女の向かいに腰を下ろす。
「ありがとう」
クロカは湯を入れてくれたカップを受け取ると、それを一口すすった。
「ねぇ、藤くんにはお姉さんがいるのよね?」
テーブルにマグカップを戻した彼女はトースターを気にしている藤を見て問いかけてみる。
特に意味があったわけではないが、なんとなく気になったのだ。
それに藤は少女の方を見て苦笑いを返した。
「そうだよ。て言っても一番上の姉貴は結婚してて今は別に住んでるし、その次は大学行ってて下宿してる」
実質現在家にいるのは自分だけで、一人っ子同然である。
しかしその事実にクロカは微かに目を瞠った。
今使わせてもらっている部屋が彼の姉のもので、一人いることはわかっていたが、二人いるとは初耳だ。
「優しかった?」
「う〜ん、どうだろ。優しかったかな、ホントの時々だけど」
優しくしてもらった記憶はあまりないが、それでもちゃんと愛してくれていたと思う。
「まぁ、弟を虐待して何が面白いんだろって思ったときは何回もあったけどな」
藤は幼い記憶を思い起こし、遠い目をしてから苦笑を浮かべた。
その様子が容易に想像でき、クロカはくすりと笑う。
「あ、笑うなよ。けっこうひどかったんだからな」
笑みを堪えている彼女に口を尖らせる藤が可笑しくて、クロカはさらに笑みを深くした。
するとそこにトースターのタイマーが切れてパンが焼けたことを報せる音が響くと、藤は立ち上がってそれを皿の上に乗せる。
「はい、どうぞ」
ほどよい感じに焼けているクロワッサンをクロカの目の前に置いてやると、彼女はうれしそうに礼を言った。
自分もテーブルにつくと、ふいに気づいたことに彼女の顔を見る。
「なぁ、別に無理して答えなくてもいいんだけどさ。クロカちゃんが探してるのって……」
そこまで言うとクロカにもその先が予想できたのか、小さくうなずいた。
「私の兄よ」
そう言ってクロカはパンを一口ほどの大きさにちぎると、それを口に放り込む。
まさかとは思い、覚悟していたことだが、浅かったようだ。実際に彼女の口からそのことを聞くとなぜか心が痛んだ。
「そうね、人間で言ったら九歳のときかしら。失踪したのよ。……母さんを殺して」
憎しみのこもった瞳が藤に向けられる。
自分に対して向けられた殺気ではないが、それでも彼女がこんな瞳をするなんて。
藤は何も言えずに押し黙るしかなかった。
忘れるわけがない。
母親の身体が血にまみれ、おそらく彼女を刺したのだろう剣を持った葵が同じように血まみれの姿で立ちすくんでいるのを。
私の大切なものを奪ったあいつの顔を。
「だから探してるのよ。あいつを殺して大切なものを取り戻すために」
それでしか取り戻せないから。
しかし藤はそれを頷こうとは思わなかった。
彼女の過去には全く関係のない自分が口を挟むことではないが、クロカがやろうとしていることは無意味であることだけはわかる。
いや、それ以前に彼女の手を血で染めさせたくない。
「俺が言うことじゃないけど……それって哀しくないか?そりゃ、俺は家族が殺されたことないから、正直言ってクロカちゃんの気持ちはわからない。でも殺されたからって復讐するのって、ただそれを繰り返してるだけなんじゃない?」
完全に否定することはできないし、肯定することもできない。
大切な人を殺されたからってその人を殺すことで、憎しみの気持ちはそこで途切れるだろうか。
いや、きっとその人のことを大切に思っていた別の誰かがきっと彼女と同じように憎しみを持って復讐することだろう。
それでは一生に連鎖は止まらない。
それは彼女とてわかっていることだ。
「わかってるわ。葵を大切に思ってる人はいる。でも許せないのよ。どうしても忘れることができない。それに復讐をするんじゃなくて、これはただの私の自己満足よ」
だから兄を殺したところで母親が戻ってくるわけではない。むしろ連鎖は続き、今度は彼女が殺されるかもしれない。
しかしそのことを十分に理解し、覚悟した上での決断だ。たとえ藤でも彼女の決意を覆すことはできない。
「これは私が決めたことだから貴方が気負うことないわ。巻き込んでごめんね。……お願いだから、そんな顔しないで」
クロカは先ほどとは打って変わった優しい笑みを藤に向けた。
しかしその笑顔もやはり寂しそうで、彼には言ってやれる言葉が思いつけなかった。
「ねぇ、お願いがあるんだけどいいかしら」
自分のことのように心を痛めている藤を見ているのが辛くなったのか、強制的に話を逸らせると首を傾げる。
藤はどうしたのかを尋ねると彼女は笑みを作った。
「島崎くんの家に電話してほしいの」
「……?」
にっこりと笑ったクロカの考えていることが理解できないのか、藤はさらに首を捻った。
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