太陽が街を照らし出し、工場の煙などで霞がかった朝が来た。しかし心地のよい柔らかな日差しだ。
黒界はいつも慌ただしい朝を迎える。
その理由は、黒界は白界より技術が進み、今も中心都市にある工業区では機械が自動的に動き始めている頃だろう。
どこからともなく機械の音が微かに聞こえてくる。
そして中心都市より幾分離れた山の麓には今は使われていない研究所がある。
数日前に戻ってきた綾夜はこの研究所で葵と待機していた。偵察に白界に向かった仲間が戻るのを待っているのだ。
「……葵」
壁に背を預け、遠くに見える中心都市の高い建物の影を見ていた葵に綾夜のものとは明らかに違う声がかけられた。
それに気づいた二人の視線が扉に向けられる。
「どうだった?柚(ゆう)」
驚いた様子もなく、葵は落ち着いた声で入ってきた女に問いかける。
若干くせのある黄色の髪はショートカットで、女性にしてはやや短めではある。
黒っぽい紫石の瞳はいつも頼りなさそうに視線が泳いでいる。彼女は人の表情の変化に敏感で、人と視線を合わせるのをこの上なく苦手としていた。
優しい顔立ちは柔らかいが、見方によれば秀麗な一面も見受けられる。
彼女がいつも低姿勢であることは長い付き合いからわかっているので、葵は我慢強く返答を待つ。
「……。い、生きてたよ。今朝目を覚ましたようで、闇の守護神が回復したら人界に戻るって言ってた……。それで、あの子は協力するみたいだった」
二人の反応を怯えながら窺い、胸の前で両手を握り合わせる。
覚悟は固まっていたようだった。そうなると、今後彼女たちが脅威になるかもしれない。
珍しく柚の話を聞いていた綾夜は驚いたように軽く目を瞠った。
「あいつまだ生きてやがったのかよ」
致命傷は外れていたにしても、あれほどの出血だ。助かる確率はゼロに等しかった。それは葵も確認している。
しかし、それにも関わらず生きているとは、相当悪運が強いようだ。
ちっと舌打ちを洩らした綾夜はふいに柚を見る。
「人界には行ったのか?」
「え、ううん。今から行こうと思ってるんだけど、先に報せたほうがいいかなって」
珍しく自分に話しかけてきた綾夜のほうを振り返り、彼女は遠慮がちに言う。
彼はフィアナの生死を気にかけていたようだったので、そちらの報告を最優先にしたのだが、いけなかったのだろうか。
何かを言われるのではないかと身を小さくしていた柚だが、思いのほか彼は気にした様子はない。
「そっか。てか、別に柚に行かせる必要ないんじゃないか?音の神気は防御しかないんだろ?」
話の矛先を葵に変えた綾夜は柚を指差す。
彼女の持つ音の神気は攻撃の術を持たない。しかし音は存在する神気の中で最強の防御力を誇っていて、例外を除いては破れることはない。
ゆえに日が暮れると魔神が闊歩する人界では、彼女にとって危険度は高い。
綾夜が何を言っているのか、ようやく理解した葵は静かに嘆息した。
「つまり、俺がお前を邪魔したことをまだ怒ってるのか」
参戦してきたユアに追い込まれ、仕返しをしようとしていた矢先に葵が現れて無理矢理連れ帰られたのだ。
納得がいかない。
「……別に。そういうわけじゃない」
呆れた様子の青年から綾夜はつんとわざとらしく顔を背けると、何でもないように取り繕う。
しかしそれが図星であることはわかっているので、葵は小さく苦笑した。
本当に嘘をつくのが下手だ。
「お前が無茶するのはほぼ確実だからな。またあの時のようになられてはこっちが困る」
いつもいつも自分勝手な行動をしては、手に負えなくなって傷つく。それを今までに何度繰り返したことだろう。
別に仲間意識があるわけではない。しかし彼の持つ血の神気の特徴を十分に理解している葵は自分のことを顧みない彼を放ってはおけない。
それに綾夜にはまだ死なれては困るのだ。
葵が自分を心配してくれていることは知っているので、綾夜にはこれ以上反論する気にはなれなかった。
「それと、あいつの力量を測っていたんだ」
沈黙している綾夜に構わず話し続け、これまでとは裏腹に真剣みを帯びた表情を浮かべる。
「あいつ?……ああ、クロカか。お前の妹だろ?」
「まぁな。守護神の協力を得たようだし、少しはまともに戦えるだろうが、まだお前にすら勝てない」
せめて今目の前にいるこの少年に勝ってもらわなければ、自分には到底及ばない。
納得する彼のオッドアイを見下ろし、葵はふと昔の幼い妹の顔を思い出す。
小さい頃は自分の後を追ってきてはよく転んでいた。引っ越した先の隣の家の男の子とは会うたびにケンカをし、母親に叱られていた。今でも仲が悪いのだろう。
なのに一緒に行動している。
そして自分は彼女からいろんなものを奪った。大事なものも、大切な人も。
彼女の憎しみは相当なものだろう。そう思われても仕方がない。
それに値することを自分は犯してしまったのだから。
「俺は強い奴と戦えればそれでいい。兄妹のことは興味ない」
一応聞いてくれはしたが、実際には関心のない綾夜は話を終わらせると、部屋を出て行った。
「相変わらずだな」
彼の後ろ姿を追っていた葵だが、視線を外して呟く。
皆自分勝手で、人の心配など気にしたふうも見せない。特に綾夜は。
そのおかげで彼と出会ってからどれほど心配させられたことか。
本当はずっとあの子の傍にいてやりたかった。でも自分が全てを壊してしまったから、もう昔のようには戻れない。
「葵、私は貴方が死んだら……」
ふいに物思いに耽っていた彼に、心配そうな柚の声が遠慮がちにかけられた。
見ればいつもの頼りない瞳がじっと自分を見上げている。
柚は伝えたいことがあるのだが、その先の言葉がどうしようもなく怖くて言えずにいると、彼は安心させるようにふっと微笑を浮かべる。
「大丈夫だ。まだ時間はある。それに俺が手を抜くとでも思っているのか?」
彼女の思いに答えるためには手を抜くことは許されない。彼女もそれを望んではいないだろう。
しかし最終的には柚を置いて……。
その考えが頭をよぎったとき、柚の声に遮られる。
「……いつかは貴方は私を置いていく。でも、私は貴方についていきたい。離れたくない」
見上げてくる彼女の顔を見た葵の瞳が微かに瞠目する。
初めてこんなにも意思の強い表情を見た。
彼はそうだな、と小さくうなずき、彼女の頬に手を添える。
大切なものはもう作らないと思っていたが、どうやら無理のようだ。また繰り返してしまう。
「……気を遣わせて悪い、柚」
柚は必死に首を横に振る。
彼がいなければ、自分はここにはいなかった。だからその償いのために、一生この人についていくと決めた。
そして葵も彼女に何度も助けられた。
今はお互いに時間は残されている。
だから、俺に願いは死ぬその時まで彼女の傍で、彼女の笑顔を見ていたい。
第六話終わり
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