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13 : 第十三話




気づけば時計の針は四時半を少し過ぎていた。
集合は五時だとあみが言っていたのに、ここにきて未だに気持ちを伝えられずにいる。
腕時計を見下ろして、杏里は息を吐き出した。
どうして。好きだと言うだけではないか。その二文字がとてもとても重い。
一通り見終わった二人は海に面したテラスに来ていた。夕方になってきたにも関わらず人は多いが、ここは比較的少ないようだ。
遠くのほうまで海が広がり、夕日が橙色に染めている。その海面を白い船が進んでいるのが見え、杏里はその様子を目で追いかける。
極近くには手すりに手を置き、頬杖をついているユアがいる。こんなに近くにいるのに、ずっと近くにいてくれているのに自分は何を躊躇っているのだろうか。
言うか言うまいか、機会を窺っていた杏里にユアは嬉しそうに話しかけた。
「あんまり人が多いとこは苦手だけどさ、けっこう面白かったありがとう、藍浦」
その声に杏里はユアを見上げると、彼は海を見たまま話していた。とても穏やかで、優しい表情だった。このまま彼がどこかに消えてしまいそうな、そんなふうにも見えた。
「……ううん。私のほうこそ、楽しかったよ」
杏里は慌てて言葉を返し、目を伏せた。
ここで言わなければ、せっかくこの機会を作ってくれたあみやクロカに申し訳が立たない。
何度も深呼吸をして、やがて小さくユアを呼んだ。
「葉月くん、あのね。聞いて欲しいことがあるの」
ユアは杏里を見下ろし、聞く体勢に入った。それを確認した杏里の心臓がどくんと大きく脈打つ。
「……小さいときにね、仕事でなかなか家に帰れない両親が、私のために本を買ってきてくれたことがあったの。でもそれはとても難しい本で、小さかった私はその本の内容が理解できなかった」
簡単に言えば、その本の内容は主人公の女の子の成長を描いた本なのだ。恋をすることによって心が成長していく、そんな話だった。
「話自体は簡単なの。主人公の女の子が好きだった男の子に告白して振られちゃう。それで傷ついて、いっぱい苦しんで悩んで。でも最後には本当に心から想う人に巡り合えて主人公は幸せになるの」
小さい頃に読んだから、それほどよく覚えてはいないが、哀しくも幸せな話だった。
杏里は視線を海に戻し、さらに話を続ける。
胸が痛まないと言えば嘘になるが、それでも消失感はもうなかった。
「ほとんどのお話って、ハッピーエンドじゃない?恋は必ず実って、必ず結ばれる」
でも、そんなのはただの想像で、現実になるわけではない。もうこの年になってからそんな都合のいい話は信じてはいない。
「だからね、気持ちを伝えても百パーセント相手がいいほうに応えてくれるとは限らないんだよね」
どんなに想っていても、自分の思い通りになんてならない。
だから少女漫画のようなハッピーエンドを望んでいたわけではないし、信じてもいない。
「伝わらない想いもあるって、そのとき初めてわかったの。女の子はそこから悩みながらも成長した。幸せになった。……葉月くん、私は……助けてもらったあのときから、ずっとあなたが気になってた。無意識のうちに目で追ってた」
その気持ちがどんどん膨らんでいって、今の気持ちになった。今まで知らなかった部分の気持ちを
「私、葉月くんが好きだよ」
たとえ彼が誰を大切に想っていようと、自分のこの気持ちだけは誰のも譲らない。
今日一日、どうしても言えなかった二文字がこうも自然に出てきた。恥ずかしさは感じない。
しかしユアの顔をどうしても見ることができなかった。おそらく困った顔をしているだろうが、それを確かめようとは思わない。
事実ユアは彼女の告白にどう返していいのやら戸惑っていた。
「…え、え?……」
この場合どう返答すればいいのだろうか。下手な応えは、かえって彼女を傷つけてしまいそうだ。
応えに窮していた彼に杏里はくすりと微笑んだ。やはり彼は困っていた。
「無理に応えなくていいよ。私が伝えてすっきりしたかっただけだから。自分に嘘は吐きたくない、ただそれだけなの」
微笑んだ彼女の瞳は本当の意味で笑ってはいなかった。それに気づいていたユアはあえて気づかない振りをして、目を伏せた。
「ごめん、藍浦。正直言って、俺には好きっていう気持ちがよくわからない。それに藍浦に俺は釣りあわねぇ、と思う」
なるべく彼女を傷つけないように言葉を選んで慎重に話すが、やはり断る言葉はどれを選んでもナイフのように彼女の心を切り裂いてしまう。
自分は人間じゃないから、必ず彼女が先に老いて自分を置いていく。それにもしも彼女に自分の正体を明かしたとき、彼女はそれを受け入れるのだろうか。
今まで異性とはそういう付き合い方をしたことがないから、余計にわからない。ただフィアナのことも仲間のことも大切で大事で、ただそれだけでそれ以上のことは考えたこともなかった。
応えになってないが、杏里には十分だったようだ。
「私もね、初めは好きなんて気持ちわからなかったよ。でも葉月くんと出会って、好きって気持ちがわかって、私はそれだけで前の私より変われたと思う」
誰かに言われてわかるものではない、と初めてわかった。自分で気づかないと駄目なのだ。
少なくとも自分はユアと出会ったことで、様々なことを知ることができた。あの本の女の子みたいに、道が一つではないことを。
「あなたのおかげだよ、葉月くん。ありがとう」
杏里は今までにない花のような優しい笑みを浮かべた。



ちゃんと笑えていただろうか。引き攣ってはいなかっただろうか。
私はちゃんと前に進める。これからも変われるよ。
初めに分かれた玄関ホールに向かっている途中、杏里はユアを見上げて言った。
「今日は付き合ってくれてありがとう。ねぇ、これからも友達でいてくれるかな?」
「……。ああ、よろしく。杏里」
きょとんとしていたユアであるが、すぐに微笑を浮かべて頷く。
人間はすぐに自分たちを置いていくから、関わるのが嫌いだった。だけど、それは仕方のないことで人間には何の罪のないわけで、自分がとやかく言って変わるわけではない。自分の勝手な偏見で遠ざけるものではないのだ。彼らも彼らで精一杯生きているのだから、それは自分たちと何の変わりもない。
それを杏里に教わった。
自分に会った事で彼女自身が変わったと言っていたが、それは自分も同じことだ。杏里に会って自分も少し変わった、そう思う。
杏里は吹っ切れたように一度伸びをすると、一歩前を歩きながらくるりとユアを振り返った。
「葉月くんはさ、好きだっていう気持ち、わからないって言ってたけど、たぶんもう気づいてるはずだよ。大切に思う気持ちも好きっていう気持ちもあまり違わないもん」
ただ彼はそれを違う想いだと勘違いをしているだけなのだ。
「…………?」
しかし彼には少し難しいようで、首を傾げるその様子に杏里は苦笑を浮かべる。
いつかきっとわかる日が来る。自分がそうであったように。
そして彼を好きになったことはあの本のように、きっと価値あるものだったと思う。そこから自分はさらに変われるのだ。
まだ少し、この想いは引き摺るかもしれないが、いつかこの出会いと想いが思い出になったとき、笑い合えたらいいよね。

私はそう信じてる。




第十三話終わり



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