第二話「旅の始まりは波乱に満ちている」
お前の肌は本当に雪のように白くて、綺麗だな。
温かい大きな手が、そっと優しく頬に触れた。
このぬくもりを自分は知っているはずなのに、どうしても思い出すことができない。それどころか、日を追うごとにだんだんと記憶が薄れていく。
私はこの人を知っている。
でも思い出せない。ただ覚えているのは。
雪奈、という名をくれた人であることと、彼の瞳が綺麗な空色であったこと。
雪奈はゆっくりと瞼を開けた。
少女は未だはっきりとしない意識のまま上体を起こし、ほうと息を吐き出す。
何か夢のようなものを見ていた気がしたが、何の夢だったのか起きたと同時に忘れてしまった。
それから徐々に昨日からの経緯を思い出して、辺りを見回す。
この部屋には必要以上の家具はなく、唯一横になれるものが今自分が使っているソファだけで、それを独占していたということはあの二人はどこで休んだのだろうか。
もしかしなくともすごく図々しい行動をしているのは確実だ。先ほどとは違うため息を吐き出すと、そこに低い声をかけられた。
「……やっと起きたか」
その声がするほうを見てみると、椅子に腰掛けて白い紙に目を通していたカイルと視線が合った。
彼の瞳は常に感情に乏しく、何を考えているのか全く読めない。おそらく相棒であるアルトにならわかるのだろうが、それは自分ではわからないことだ。
正直に言って、雪奈は彼のことを少し怖いと感じるのである。
そして今直面しているこの微妙な空気をどうするか。
「お、おはようございます」
しばし悩んだあと、とりあえず挨拶をしたほうがいいと判断し、雪奈は引き攣った笑みを浮かべつつおずおずと口を開く。
一日の始まりは挨拶から。別に間違ったことはしていないはずだが。
「………。……ああ」
一瞬カイルの目が珍しいものでも見るかのように細められ、じっと彼女を凝視したあとに頷く。
そしてその一言を発しただけで、彼からの挨拶はなかった。
「………………」
会話が続かない。
するとカイルは興味がないのか雪奈から視線を外すと、また紙に視線を戻してしまった。
これではますます話しかけづらくなってしまう。
これから一緒に旅をするのだから、少しでも仲良くなっておきたいと思っていたのだが、こんなときに限って話題のひとつも全然出てこない。
自分はもともと話し上手ではない。こういうときは何をきっかけに話せばいいのだろうか。
うーん、と考えを巡らせている少女はふと何かに気づき、紙に集中しているカイルの瞳を見る。
まるで空を切り取ってはめ込んだような綺麗なブルークォーツの色。いつも思うが、綺麗な瞳なのに前髪に隠れていて勿体無い。
「あ、あの……、アルトさんはどこかへ行かれたのですか?」
起きたときにもう一人の姿が見えなかったが、どこかへ出かけていったのだろうか。
首を傾げる雪奈の問いかけにカイルは顔を上げてほうと息を吐き出す。
「買出しに行った。もうじき戻るだろうから、あいつが戻ったら出発する」
感情の薄い声音で淡々と説明をした。
「……そうですか」
人と接することが苦手なのか、はたまた単に自分が嫌いなだけなのか。
どちらかはわからないが、明らかにアルトと話している彼の様子と自分と話す彼は違う。
何か気に障ることを言ってしまったのかもしれない。あまり外と交流をしたことがなかったから、無意識のうちに言葉に出してしまったのかもしれない。
そんな考えが浮かんできて、さらに雪奈は自己嫌悪に陥る。
小さく息を吐き出した途端、扉が開かれると同時に聞こえた声に彼女は現実に引き戻された。
「ただいまー。あ、おはよう雪奈」
入ってきたアルトは両手で抱えた茶色の紙袋をテーブルの上に置くと、起きている少女に気づいてにこりと笑いかける。
そんな彼に雪奈もまた先ほどカイルにもしたように、おはようございます、と挨拶を返した。
「いったい何を買われたのですか?」
置かれた紙袋にはめいっぱい商品が詰め込まれ、いったい何が入っているのか雪奈は興味津々の様子で中を覗き込む。
一番上に入っているものしか確認はできないが、そこには日持ちする干し果実や保存食が入っていた。
「ここから次の街までそんなに距離はないけど、都市のほうが品揃えもいいし、念のためにね。日持ちする食糧とか、あと薬と包帯とか買ってきた」
アルトは紙袋からひとつひとつテーブルに出し、買い忘れがないか確認しながら説明してくれる。
全て出し終わった後、彼は雪奈を見た。
「一応俺が思いつく限りは買ってきたんだけど、雪奈はほかにいるものある?」
今まで女の子と一緒に旅をしたことがない上に、普段女性は何が必要なのかアルトには全くわからない。
もしも足りないものがあるのなら、今のうちに買っておかなければ。
そう思って尋ねたが、雪奈は首を振って頭を軽く下げた。
「いえ、大丈夫です。わたしも必要なものは持ってきましたから。お気遣いありがとうございます」
もともと一人で行くつもりだったのだ。必要なものは自分で用意してきた。足りないものは旅の途中で補充していけばいいと考えていた。
ソファに置かれたピンクのリボンがついた白いショルダーバッグを示し、彼女は微笑を浮かべる。
「さすが、一人で無茶して行こうとしていたことはあるな。用意周到なことだ」
彼女のバッグを一瞥したカイルはいつもと同じ声音で少女の瞳をじっと見る。
本人は自覚していないようだが、その視線が妙な威圧感を与えてきて、雪奈は引き攣った笑みを浮かべた。
「こら、睨んじゃ駄目でしょ」
「睨んでねぇよ。いちいち叩くな」
額を軽く叩いてくるアルトの手を鬱陶しそうに振り払い、仕返しと言わんばかりにカイルは彼の頬を抓る。
そのやり取りが可笑しくてつい笑みがこぼれてしまい、それを見た空色の双眸が微かに据わった。
しかし彼女を非難するようなことはせず、盛大にため息を吐き出すと乱暴に椅子の背もたれにもたれかかって腕を組む。
「じゃあ、そろそろこれからのことの説明しようか」
冗談はこれまでにし、真剣な顔つきになるとアルトはそう切り出すと、地図を出す。クラウディス近郊の地図である。
時間がないというわけではないが、朝のうちにここを出た方が警備兵に見つかる確率は低いと予想される。主に今から通る道のことを考えれば、だ。
表情が一変した仲間にカイルは無言で頷き、雪奈も気を引き締めて地図を見る。
「まず、ここから出る方法なんだけど、正門はたぶん門番がいるだろうし、下手に動けば警備兵と鉢合わせしてもまずい。だから地下から行こうと思う」
そう言ってアルトは確認をするように、二人を交互に見た。
地図に視線を落として話を聞いていたカイルはふいに引っかかりを覚えて彼を見る。
「まさかあそこの地下通路じゃないだろうな」
思い当たる場所が確かに一箇所だけある。しかしその場所は危険であると、聞いたことがある。
否定してくれることを期待はしていないが、念のために尋ねるとアルトは即答で頷く。雪奈だけがわからずに首を傾げていた。
「この街の西側の住宅街の中にね、たぶん外に出れる通路があるんだ」
おそらく昔々に物資を運ぶことに使っていた通路だろう。近隣には農村がある。今も昔もクラウディスはそこから農作物を分けてもらっているのだ。
昔、まだ技術も発達していないとき、陸路を通ると魔物や盗賊に襲われる危険があるために地下に通路を作った。しかし今や様々な国から空を通ってくるため、必要なくなって閉鎖したのだろう。
「そんなところがあったんですね。わたし、ぜんぜん知りませんでした」
十六年以上生活しているこの街でも、まだまだ知らないことはたくさんあるようだ。
「まぁ、近くにあるものほど案外見えにくいものだしね。で、場所だけど、ここ。昨日雪奈とぶつかったところに水路があっただろ?あの奥を進むと地下に続く階段があるんだ」
「だが、大通りから近い。見つからずに行くのは難しいんじゃねぇか?」
地図上を指差す場所と昨日実際見た風景を思い出し、カイルは渋面を作る。
あの場所は大通りに面した細い道を少し進んだところにある。そんな人通りの多い場所の近くでは目撃されるかもしれない。警備兵でなくとも、街人にも。今後のためにもあまり顔を知られるわけにはいかない。
カイルの懸念も最もだ。アルトはその反応に満足げな笑みを浮かべた。
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