第二話
綾夜は風呂に入ることをこの上なく嫌がる。
それは髪を洗うのが面倒だからだとか言っているが、それなら切ればいいだろう、と葵は思っている。だから彼を風呂に入れさせるのには毎日苦労しているのだ。
夕食を終えて食器を洗っていた葵はふと肩越しに後ろを振り返る。
綾夜がテーブルに突っ伏しながらテレビを見ていて、その目が実に眠たそうにしていた。
「綾夜、眠たいんだったらさっさと風呂に行って寝ろ」
時計を見てもまだ八時過ぎではあるが、朝のことを考えれば彼には今から寝てちょうどいいのかもしれない。
葵の声に綾夜はんー、と半ば間抜けな返事を返すものの、一向に行動に移す気配はない。
ちなみに柚はもうすでに風呂から出てきて、一言葵に声をかけると早々に自室に戻っていったのだ。
葵はほうと息を吐き出した。
「綾夜」
再度彼を催促させると、彼は渋々上体を起こし、葵を見る。
「何か言いたそうだな」
「べっつにー」
「なら早く行け」
「……面倒くさい。…………はい、行ってきます」
微かに柳眉が吊り上ったのを見逃さなかった綾夜はさすがにやばいと思ったのか、素直に立ち上がった。
そして自分の着替えとタオルを持って風呂場に行き、その後ろ姿を見送った葵はほうと息を吐き出す。
洗い物の続きをしようと流し台に向かい、てきぱきと済ませてしまう。
五分が経った頃だ。
リビングに入ってきた人物に彼は心の底から脱力したのだった。
しっかりとパジャマに着替えた綾夜が、何食わぬ顔で入ってきたのである。
「………えらく早いな」
葵は若干頬を引き攣らせて彼に尋ねる。
「え、う、うん」
綾夜の肩がぴくりと反応したが、それでも彼は気づかない振りをし、さらに問いかける。
「そのわりに髪が乾いてるな」
「う、うーん、そうだな。乾くのがいつもより早かったんだ」
葵の目がだんだんと険しくなっていくのが、目に見えて明らかだ。綾夜は苦笑いを浮かべて後退った。
「そんなわけないだろう、どうやったらそんな長い髪が一瞬で乾くんだっ、さっさと入って来い、馬鹿!」
そう言って綾夜の頭に拳骨を落とし、半ば強引に引き摺る感じで風呂場を目指す。
「お前が出てくるまでここで待ってるから、ちゃんと入って来い。わかったな」
最後に念押しをされ、綾夜はしょうがないといった様子で頷いた。
これ以上駄々を捏ねると確実に雷が落ちてくる。それも言葉と身体的な攻撃のダブルで。
さすがの綾夜もそれは嫌なので、おとなしく風呂に入った。
三十分ほどが経ってようやく出てきた綾夜は風呂に入ったにも関わらず疲れていた。
「あー、腕痛い………」
髪を洗うのが心底疲れるのだ。水分を含むとさらに重たくなるし。
だらんと腕を垂らせて椅子に腰を下ろした綾夜の、未だに水滴が滴っている髪を丁寧に拭いてやりながら、葵は本日何度目かのため息を吐き出す。
「綾夜、明日俺がばっさり切ってやる。嫌とは言わせないからな」
これまでにも切れと言ってあるのだが、如何せん本人はこの上もなく面倒くさがりなので、髪を切りにすら行かない。本当に困ったものだ。
それにいい加減葵も彼の髪の長さにはうんざりしているのだ。朝にはアホ毛の立った髪のまま学校に行こうとする髪を梳いてやったり、こうしてぽたぽたと水滴を滴らせながら風呂から出てくる髪を拭いてやったり。洗うのも疲れるのだろうが、拭くのも大変なのだ。
この際、思い切って切ってやろう。
えーいいよ、別に、と嫌がる綾夜だが、最後の言葉に悪寒が走ったのか、素直に丁重にお願いしたのであった。
次の日、盛大に綾夜の断髪式が行われたのは言うまでもない。